1930年、シカゴで学校用品販売業を営んでいたリューサー・アーウィン・リプルーグルが自宅の地下室で地球儀を作り始めた頃、製品の大部分は学校に販売されていました。
しかし、彼は、「大人こそ家庭に地球儀を置くべきだ」と考えました。
数ヵ月後、彼は工員を一人雇い、サウス・フランクリン街に小さな工場を構え、操業を開始しました。
創業して間もなく、百貨店のマーシャル・フィールド社から10万個の注文を得ました。
それは1933年にシカゴで開かれる「発展の世界博」で販売するためのものでした。
リプルーグル氏にとってこれが事業の足場となり、その後も順調に実績を積み重ねましたが、1941年12月7日までは特に目覚しい進展はありませんでした。
ところが、日本軍による真珠湾攻撃があったその日を境に人々は地球儀を買い求め、ハワイと日本の位置関係を確かめたのでした。
第二次世界大戦中、ルーズベルト大統領がラジオ演説の中で「さあ、地球儀を見てください・・・・」と呼びかけたことで更に需要は高まりました。
しかし、やがて戦争が終わると、地球儀は店の棚の上でほこりをかぶり始めました。
「地球儀屋は息の根を止められてしまいました。誰もが、間もなく国境線が変わるだろうと知っており、それが落ち着くまでは地球儀を買うまいと決めたのです。」とリロイ・トールマンはその頃を回顧しています。
彼はリプルーグル社の二代目カートグラファー(地図製作者)で、42年間リプルーグル地球儀の地図を描き続け1991年のソビエト連邦崩壊後の世界地図の激変をも経験し、1997年に引退しました。
海軍将校だったウィリアム・C・ニッケルスが復員し、リプルーグル社に入社したのは第二次世界大戦後間もなくのことでした。
彼によれば、「私が入社した1952年当時、この会社はとても小さな会社でした。ある日、社長のリプルーグル氏が受注部門の女性に未納品リストを作らせたのですが、驚いたことに人手に頼っていたのでは何年もかかってしまうほど大量の注文を抱えていたのです。 直径30cmの地球儀の生産量は1日150個でしたが、ちょうどクリスマスの需要期で、50生産日を残してなんと20,000個余りの注文を残していました。」
と当時の状況を語っています。
市場がリプルーグルの成長を熱望していたのは明らかです。
ニッケルス氏は生産担当の副社長として生産能力の拡大に力を注ぎました。
1959年にリューサー・リプルーグル氏は会社をメレディス社に売却し、自らは1972年まで駐アイスランド米国大使を務め、1981年に亡くなりました。
ニッケルスはメレディス社の下で総支配人として事業を続けていましたが、1973年にメレディス社が地球儀部門を手放すことを決定したときに、彼はわずかな蓄えと、投資、ローンなどあらゆる手段を講じてこの会社を買い取りました。
1987年にデンマークのスキャン・グローブ社を取得したことで、これらの二社を合わせると世界で販売されている地球儀のおよそ70%の生産量を誇ると言われています。
実用性とインテリア性を兼ね備えた製品は、アメリカ歴代大統領を始め世界中の方々に愛用され、地球儀の代名詞となっています。